2013年11月8日金曜日

慰安婦問題の真実_第四章_日本軍の占領地における軍紀違反事件


 第四章_日本軍の占領地での軍紀違反事件
この章では、あえて旧日本軍が占領地であった蘭印(インドネシア)にて犯した戦争犯罪に焦点をあてます。このインドネシアでの軍紀違反事件は、慰安婦問題糾弾派が、「慰安婦強制連行説」「慰安婦性奴隷説」の証拠だと主張して持ち出してくる件です。

ここでは慰安婦糾弾派が使うオランダ政府報告書「日本占領下蘭領東インドにおけるオランダ人女性に対する“強制売春“に関するオランダ政府所蔵文書調査報告 (1994年1月)」から、日本を擁護する記録ふくめて、、軍紀違反事件の概要を紹介します。また、戦後の軍事法廷で死罪に処せられた方達の遺書がわりの獄中日記の内容を紹介する。あまり知られていない戦犯とされた軍人達の訴えを紹介することで、BC級戦犯裁判結果の妥当性について考えるきっかけを提供したい。

オランダ政府報告書にはオランダ人女性が関わった“強制売春”として7件が報告されています。本章でどうしても譲れない一点はインドネシアにおける事件は、戦時下の占領地において日本軍将校や兵士が軍上層部の命令に反して直接慰安婦を“強制的”に集めたとされる軍紀違反事件であり、軍がその方針によって行った軍全体犯罪ではないということ。もちろん組織としての責任はあると思いますが、蘭印のことを持ち出して日本軍全体がそうであるかの主張は、受け入れられないということです。

そして平和そのものであった朝鮮半島における慰安婦の召集は、民間のブローカーが行ったのであり、占領地における件とは別の次元であったことを強調しておきたい。したがって朝鮮人慰安婦の件で、蘭印のことを持ち出すのは、論点のすり替えなのです。

ここでは上記の7件の強制売春犯罪から、蘭印ジャワ島のスマランでおきた白馬事件を例にあげます。この章は以下長くなるので、便宜上、(4−A) 白馬事件の概要、(4−B)馴染みの薄い戦後のBC級戦犯裁判のイロハ (4C)オランダ人女性強制売春事件の裁判結果 (4−E)オフェルネ証言の信憑性(4−D)戦後の戦犯裁判は連合国による復讐裁判であった。の4つのセクションにわけました。




(4−A)白馬事件の概要
日本軍は、旧蘭領インドネシアからオランダ軍を掃討したあと、蘭軍兵士や婦女子を捕虜とし、抑留所に収容しました。ジャンヌ•オフェルネさんは、そのような抑留者の一人で、2007年には米下院において慰安婦問題について、証言した一人です。

オフェルネさんの証言によると、「1944年2月に、オフェルネさんのいた抑留所からは、日本軍によって他の7人のオランダ人少女らと供に、強制的に慰安婦として集められ慰安所に入れられた。その後、毎日毎夜、日本軍軍人にレイプされ性奴隷として扱われた。辛い日々の後、解放された私たちは家族と再会ができたものの、以前とは別の慰安所から解放された女性たち専用の収容所に送られ、堅くこの件については秘密を守るようにと厳命された。さもなければ、家族に危害が及ぶと脅迫された。その後、バタビアの収容所に送られそこで、終戦を迎えた」ということです。

彼女の体験は悲惨極まりないものであったでしょう。オフェルネさんやその他の辛い体験をした女性たちに深い同情を寄せずにはいられません。1994年にオランダ政府から出された報告書には、このようなオランダ人抑留者女性の中から、日本軍によって強制的に慰安婦にされた、との訴えが、記録されており、これらの件は、以下の本に紹介されています。

従軍慰安婦 (吉見義明著)、[BC級裁判]を読む (半藤一利ら著)慰安婦と戦場の性 (秦郁彦著)


例えば、以下「慰安婦と戦場の性」より抜粋または参照。

戦時下のジャワを中心とする蘭印では、15万人をこえるオランダ人が日本軍の管理する捕虜収容所や民間人抑留所に収容され、うち2万人が女性であった。占領の前半期まで、女性たちの多くは抑留所外の生活を許されていたが、働き手を失った貧困な女性の中には民間の売春宿や風俗産業で働くものも少なくなかった。白人女性が経営する売春宿もあり、マダムたちの中には、日本軍幹部や民間人の妾になるものもいた。とオランダ政府の報告書は述べている。

しかし戦況の悪化により、陸軍省は、オランダ人を含む敵国人の全員を捕虜収容所に併設された軍抑留所に移すよう指示した。(中略)その結果、指定居住区域にすんでいたオランダ人女性は、売春婦も含め軍抑留所に入ることになった。

こうした状況で、慰安所開設願いが、第十六軍司令部に出され、抑留所を管理していた第十六軍軍政監部は、「強制しないこと、自由意志で応募したことを証する本人のサイン付き同意書をとるよう」指示していたが、中には違反する出先部隊もあった。以上抜粋終わり。

残念なことに、ジャワ島スマランなどでは、この司令部よりの指示が守られなかったようで、オフェルネさん等の悲劇を招いてしまいました。しかし、この話には続きがあります。

オランダ政府の報告書によれば、慰安所の開所は1944年3月1日。娘をとられた抑留者(捕虜)の親が、陸軍省から捕虜調査に派遣された小田島薫大佐に直訴して発覚し、直ちに4つあった慰安所の閉鎖が命令され直ちに実行されたのが4月末、とある(「慰安婦と戦場の性」より)。つまり、「慰安婦強制連行」は軍の方針に反することであったことがわかります。

反日プロパガンダでは、この事件の被害者が3年半に渡って毎日毎晩、性奴隷としての扱いを受けたと喧伝していますが、それは被害者が抑留されていた軍抑留所での生活を含みます。もちろん被害者にとっては、2ヶ月でも3年半でもどちらでも堪え難い日々には違いありませんが。しかし、祖先の過ちを今になって責められる私たちにとっては、はっきりさせておきたいところです。

更に話はつづきます。この関係者はその後処罰されませんでした。慰安婦問題糾弾派は、この処置を「慰安所の閉鎖は娘の親が訴えたからに過ぎない。始めから処分などなかったに過ぎない」と非難しますが、筆者は異なる理由があったと思います。

大東亜戦争の戦局は、1942年夏のミッドウエー海戦での敗北が、転換点であったと言われます。それまで破竹の快進撃を続けていた日本軍でしたが、その後は劣勢に立たされ、戦局はじりじりと悪化して行きました。43年2月ガタルカナル島撤退、43年5月アッツ島守備隊玉砕、44年3月インパール作戦大敗北、と代表的な敗北を列記しましたが、もちろんこれだけにとどまりません。

つまり、戦局悪化の中、相手が敵国オランダの女性であった事や軍紀違反を犯した将校などを罰すれば士気が落ちるとかなどの背景があったのかもしれません。いずれにせよ、軍紀違反事件の内容と違反者が処罰されなかったことは、規律が正しいと言われた日本軍に大きな汚点を残したのです。

一方、同じ時期にやはり海軍管轄下のセレベス島カンピリで下士官の抑留所長,山地正二等兵曹が、職をとして慰安婦150人の徴集計画を阻止した佳話もあり、戦後この話は、笠智衆氏を主演に映画化「白い肌と黄色い隊長」されました。



(4−B)戦後のBC級戦犯裁判 (「BC級裁判を読む」より)
さて、B級戦犯およびC級戦犯とは、戦争犯罪の類型B項「通例の戦争犯罪」とC項「人道に対する罪」に該当する戦争犯罪を問われた一般の将校や兵士、軍属ら(軍人ではないが、捕虜収容所の看守など)であり、A級と同様に、BCは戦争犯罪の類型(分類)であり、罪の重さではありません。日本のBC級戦犯は、GHQにより横浜やフィリピン、中国、など世界49カ所の軍事法廷で裁かれ、のちに減刑された人も含め約1000人が死刑判決を受けました。

戦犯裁判で裁かれた軍人、軍属のうち、軍人を兵種別にみると圧倒的におおいのが憲兵でした。本来の職務は、軍隊の警察官として軍紀取り締まりのほか、各占領地で治安維持や抗日分子摘発など広範な職務を担った。占領地で武装蜂起した民衆を弾圧する先兵の役割を果たしたため、怨嗟の的ともなったのです。

BC級戦犯裁判の記録と資料はすべて連合国が自国に持ちかえり、日本には渡されていません。しかし弁護人など裁判に関与した人たちから集められた膨大な資料に加え、裁判後に関係者から聞き取った証言集が日本の国立公文書館に保存されています。徐々に公開が始まっているようですが、スマランでの白馬事件の全裁判記録はオランダ政府によってプライバシーに配慮し2025年まで非公開とされており、日本もこれに従って証言全文は公開していない。

A級戦犯とされる東条英機ら政府と軍指導者を裁いた東京裁判は、各国から選ばれた文民が裁判官となりました(一部は軍人)。一方、BC級戦犯裁判を行ったのは、各国の「軍事委員会」であり判事はすべて軍人でした。このBC級裁判は、非常に公正な裁判もあったようですが、証人が出て来ないにも拘らず有罪となり死刑などを受けた戦勝国による報復裁判の性格を多分に帯びていました。

さて歴史認識で日本を非難する中国韓国についても少し触れます。蒋介石の国民党軍率いる中華民国が連合国の一員として戦犯裁判を行いましたが、共産党との内戦のため、1949年で戦犯裁判を打ち切りました。一方、中国共産党軍は、終戦直後に満州各地で「人民裁判」により多くの日本人を処刑しました。

裁判とは名ばかりの虐殺が行われ、犠牲者は約三千五百人と言われています。このことは、便衣兵(ゲリラ)掃討の結果、2千人の死者を出した南京陥落後の事件(第三章)を30万人の民間人虐殺と捏造し糾弾される一方の日本人としては知っておくべき事でしょう。 (以上「BC級裁判を読む」を参考)


BC級戦犯の中には、日本と一緒に戦争を戦った朝鮮人・台湾人がいました(以下ja.wikiからの抜粋)。その数は、朝鮮人が148人、台湾人が173名でした。朝鮮人戦犯148人のうち、軍人は3人。1人は洪思翊中将(死罪)であり、2人は志願兵でした。この他通訳だった朝鮮人16人が中華民国の国民党政府によって裁かれ、うち8人が死刑。残る129人全員が、捕虜収容所の監視員として徴用され、タイ・ジャワ・マレーの捕虜収容所に配属された軍属でした。

敵国の婦女子をはじめとする民間人を抑留したジャワ軍抑留所の監視にも朝鮮人軍属があたったため、オランダ法廷で戦犯となっています。朝鮮人については
「日本の正規軍より凶暴だった
"What did a Japanese army do in Hong Kong? ”
「体罰では、日本兵よりも韓国人を遥かに恐れた(“The Brave Japanese”)」、「日本人戦犯の責任を軽減するつもりはないが、占領地域で最も嫌われたのは日本国籍を持つ韓国人であった
(“Japan has been misunderstood” by Alfred Smoular)
などをはじめ、その凶暴性についての証言が数多く出ています。

"What did a Japanese army do in Hong Kong? ” by 謝永光著:, 幹夫
"Koreans (in Japanese army) were taller than Japanese and more violent" "Most of rape cases were done by Korean so people in Hong Kong in those days hated Korean more than Japanese."


The BraveJapanese by Kenneth Harrison:
邦題「あっぱれ日本兵オーストラリア兵の太平洋戦争」

Japan has been misunderstood by Alfred Smoular
「ニッポンは誤解されている−国際派フランス人の日本擁護論
長塚 隆二、 尾崎 浩 (共訳)




(4−C)オランダ人女性強制売春事件の裁判結果 (「慰安婦と戦場の性」より)
1948年3月24日、オランダ軍事法廷は、スマランの事件について、「考えうる最も悪質な」犯罪と判決し、当事者である岡田慶治少佐を死刑、能崎中将(隊長)に懲役十二年、池田大佐に同十五年など十一人に二年から二十年の有期刑を科した。その中には4カ所の慰安所を経営した4人の日本人業者が含まれていた。

BC級裁判では、慰安婦にされた35人のうち25名が強制だったと認定している。1994年のオランダ政府報告所も蘭印各地の慰安所で働いた200〜300人のうち、少なくとも65人を強制売春の犠牲者と判定しました。(4−A)で記した通り元々民間の売春宿で働いていた女性が相当数、軍の慰安所に入っていたのでした。裁判では「宮子」と日本名を付けられた被害女性が、料金の3割が慰安婦達の収入だったと証言しています(「BC級裁判を読む」より)。

この章でたびたび引用する半藤一利著「BC級裁判を読む」には、BC級裁判で有罪となった日本軍の蛮行の数々が記録されています。これを読むと、規律が正しいと言われた日本軍も他国の軍隊と同様、非人道的な振る舞いをした、と思わされます。戦争は悲惨なもので、二度と起こしてはならないと、痛く思う。


(4-D)オランダ人女性強制売春事件裁判での被告の証言
オランダ政府報告書にはオランダ人女性が関わった“強制売春”として7件が報告されています。このうちオフェルネさんが被害者となったのがこのうちの一つで、スマランでの事件で白馬事件と呼ばれました。

筆者が白馬事件について引っかかるのは「慰安所で報酬もなく性奴隷とされた」という反日プロパガンダ側の主張です。 (4-C)で記したように、過半数が強制でなかった、つまり抑留所に入る前に売春をしていた女性が多数慰安婦になったと考えるのが妥当だし、報酬を得ていたとの被害者の証言がある。もちろん本人の意志に反して慰安婦させられた側にとっては、慰安所で報酬が支払われる身分であろうが、性奴隷と扱われようが、堪え難い体験であったことには違いない。

ところで死刑となった岡田大佐の主張も聞いておきたいところです。岡田大佐の獄中手記「青荘日記」が残されており、そこでは「性奴隷」を真っ向から否定しています。(以下「慰安婦と戦場の性」より)将校クラブの婦人たちをよく可愛がってやったつもり……その彼女たちが告訴している。それも嘘八百を並べて……時勢が変わったので我々に協力していたことになっては彼女達の立場がないのかと想像……起訴状を見ると首謀者にされている……「そうか飼犬に手を咬まれたのだ。もう何も言うことはない」と覚悟した……敵の銃口の前に立って、日本軍人の死に態を見せてやることではなかろうか。」(以上引用終わり)

死を受け入れた軍人が書いた日記です。この他にも白馬事件での裁判では、日本人被告側に「強制的に慰安婦にされていたとは思わなかった」「希望者を募って慰安婦にした」「決して強制的ではなかった」という証言が多い。被害者女性らと被告等の証言は、全く対立しています。この事件は双方にとって不名誉なものであるため、深層を語りかねてウソや誇張があるのでしょうか(「BC級裁判を読む」より)。

ちなみに岡田大佐が利用した慰安所とオフェルネさんが働かされた慰安所は違うようです。オフェルネさんらは全員、花の名前を付けられていましたが、岡田大佐の利用した慰安所では、女性を日本名で呼んでいました(「慰安婦と戦場の性」より)。

これら原告と被告の証言をどう判断するかは、人それぞれだと思います。ただ報酬がなかったという被害者の証言がありましたが、これは信憑性に乏しいです。過半数が強制でなく報酬をもとめて慰安婦になったわけですから、一部の慰安婦だけが無報酬だったとは考えにくい。ただ重ねて書くが、本人の意志に反して慰安婦させられた側にとっては、慰安所で報酬が支払われる身分であろうが、性奴隷と扱われようが、堪え難い体験であったことには違いない。



(4−E)戦犯裁判は戦勝国による復讐裁判であった
慰安婦問題糾弾派はよく、BC級戦犯裁判で日本兵が有罪になった件を持ち出して、彼らの主張を正当化します。しかし裁判そのものが不当であったケースが少なくなかったのは間違いなく、この点において彼らの主張の正当性は崩れると思います。

佐藤源治元憲兵隊曹長は、同じくBC級裁判で死刑に処せられた。罪状は、捕虜への虐待や殺人など多数。彼は裁判を受ける間、死刑を待つ間に記した手記を残し、それが郷土史家菊池日出海氏によって「ジャワ獄中記」として出版された。その中から、BC級裁判の本質を表すくだりがある。

「オランダ軍は日本軍憲兵達の顔写真を並べて印刷したパンフレット、写真のしたに各人の経歴が書いてあるんですが、それをジャワ全島に配布したんです。そしてここにある写真中の人物に拷問、暴行を受けたものは軍に届け出よと但し書きがあるんですな。いや、多少の褒美を期待したでしょうが、それに対する現地在住のオランダ人による告訴のありさまは、事実無根、でたらめの限りでした。(どんな告訴かは、内容を省略)これは私だけじゃなく全被告を通じて裁判に証人が全く出ないんです(出廷しなかった)。書類だけで、どんどん調べを進めているんですな。そしてことあるごとに、「日本憲兵は人間でない。鬼だ、獣だ」と口をきわめて罵るんです。戦いに負けた惨めさをしみじみ味わいました。」「自分は復習裁判で死ぬのであり、良心に顧みて何一つやましい点はない」

「ビンタ一つが十年の懲役、3つなら三十年」という言葉は、戦犯裁判の一面を語る。裁判では、証人すらいない場合すらあり、被害者の証言があっても充分吟味されずに証拠として採用されたり、人違いや風俗習慣の違いからくる誤解、個人的怨恨による告発などがあった。こうした経緯から冤罪により処罰されたものが多くいたこともまた事実である。」以上「ジャワ獄中記」より。

日本軍は占領地で現地のインドネシア人を警察官として採用していた。そして本書にはこんなくだりもあった。この警察官が「骨の髄まで沁み込んだ白人に対する根強い憎しみ、恨みを存分に発散させたのである。」「公判になって知ったことだが、彼はすでに恐るべきデマを造り上げて憲兵を誣告しており。。」
と、自分が助かりがたいためにすべての責任を憲兵になすり付けられたことによる罪もあった。

日本はサンフランシスコ平和条約で、こんな裁判でも結果を受け入れました。平和条約も各国と結びました。賠償金を払ったケースもあります。オランダには慰安婦の件で2度も賠償金を支払いました(第九章)。そしていま再び非難されている。いつまで謝罪を続けなければならないのでしょうか?筆者はもうウンザリです。


最期の本章のまとめ
(1)蘭印では(おそらく他の占領地でも)、日本軍が直接慰安婦を集めることがあった。しかしこの点が、業者が慰安婦をあつめた朝鮮半島とは、異なる。
(2)日本軍はその方針として慰安婦をその意志に反して集めることを許してはいなかった。
(3)一部の将校が軍紀を犯し、オランダ人女性捕虜の意思に反して、売春を強制した。
(4)蘭印の慰安所では自発的に売春をした女性が相当数いた
(5)軍紀をおかし女性の権利と尊厳を踏みにじった軍人軍属は戦犯裁判で死罪や懲役刑に処せられた
(6)強制売春の被害者への補償は二度、謝罪は少なくとも一度、行われた

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